尼崎脱線衝突事故報道への違和感

情報とは関係ないのですが、最近の報道に関してなんとも言えない違和感があるので書く。

「人は悪と知りつつ悪を行う事はない。」ソクラテスの有名な言葉であるが、裏を返すと「人は善と知りつつ善を行わない事もない。」ともいえるのではないか?

何が言いたいのかというと、本来報道とは、「悪」や「善」に気付かない人や、気付いていると思っても実は正しく理解していない人達に、それは悪ですよ!とか、もしくは、こうした方が良いですよということを、知らしめるのが役割のはずと思う。

今回の事故では、JR西の様々な問題点※1があげられているが、それは、これまでのJRに対する取材活動の中で指摘可能なものではなかったのか?もしくは、それを指摘して警告を発するのが本来の報道機関の役割なのではないのか?ということをまず問いたい。
※1:JR東に比べて遅れている新型ATSの導入,合理的とも言えない社内教育の実態等

そこまでは、実際、無理としても、そう言った警告を発することなしに問題が発生した後になって、鬼の首でも取ったかのように経営者を攻め立てる姿を見ると、それはまるで運転をミスった車掌を攻め立てる鬼上司の姿そのもののように思えてしまう。

自分達が"問題を指摘できなかった報道機関である"ということを腹の中に飲んでから、ではJR西含めてどうすべきだったのか、何でこんなことになってしまったのか、どこに問題点があったのかを明らかにして、社会に対してより良い方法を提示していくというのが、報道機関の本来のあり方と思うが如何か?

当方、報道に関しては全くの素人であり、ただ、TVや新聞読んで思ったことを書いているだけなので、的を外しているかも知れないし、そんなことは分かっているといわれるかも知れないが、以前も、諫早湾の干潟事業の閉め切りのときに、報道陣に向かって、「今頃来ても遅いんじゃ!」と言っていた地元の人の声を聞いたときと同じような違和感を今回も感じたので書いた。

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なお、もちろんだが、事故を起こしたJR西の責任は言うまでもなくきわめて重大であり、JR西程の組織で、オーバーランなどの問題発生時の対応に、教育と称する根性叩き込みで対応していたというのも驚きである。
まるで、戦時中の軍隊そのままである。
管理に際しては、まず第一に科学的な手法ありきであり、根性や精神力等の個人の資質を当てにするのは最後というのは、基本中の基本であり、それさえも守られていなかったのだとしたらJR西の病根はかなり深い。
(根性、精神力を否定するものではないです。でも、大前提として管理者があてにしてはいけないものです。)